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ノーベル賞

今年はいまのところ2名の日本人科学者が選ばれている。嬉しいことだ。

さて、村上春樹がノーベル文学賞候補として毎年騒がれるが、私は毎年「なぜ?」という疑問符しか思い浮かばない。

候補者は各賞約300人くらいの人が選考される。4月頃には20人まで候補が絞り込まれる集められた候補者は、4月頃をめどに20人まで予備候補者として絞られる。そうして5月にはさらに5人まで絞られる。

だがここで重要なのは候補者は公表されないのである。何位とか報道されることがあるが、あれはブックメーカーが勝手に発表している賭け率であって、選考にあたっているアカデミーは何ら関与していない。

候補者は事後50年経つと公表される。おそらく当時の基準で本人が死んだであろう年数が経過してからということだろう。50年の経過を待つ前に関係者筋から本当らしい噂が漏れることもあるが真偽のほどは公開までわからない。

このように候補になっているか不明なものを毎年騒ぐのはどうなんだろうか。他には値する文学者は居ないのか。居ないのだろうな。

ウポポイがなぜ作られたかという疑問

ウポポイという国の施設が突然計画され作られた。北海道民として見ていても不自然な出来事だった。当時、札幌市議会議員が「アイヌはもういない」といった発言でつるし上げられたのは記憶に新しいが、実際北海道民でも存在を知らないどころか無視あるいはいまだに差別しているのは明らかな事実なのだ。

2007年9月13日に国連で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」がある。国際法上の法的拘束力はないが、先住民族に対する差別の禁止と先住民族の権利の明確な保持、そして彼ら自身が目指す経済・社会的開発の継続を促進することが明記されている。

この国連宣言をふまえ、2008年6月に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆議院および参議院において全会一致で採択されは。政府は同決議を受け「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置。有識者懇談会は報告書をまとめ、2009年7月に公開した。ここで「民族共生の象徴となる空間の整備」の必要が議論されたことが、民族共生象徴空間という名称へと直接的につながっていく。

このような経緯から「民族共生の象徴となる空間」は必要とされることになった。アイヌ政策推進会議では、一部のアイヌの人々の意見を踏まえつつ、総合的かつ効果的なアイヌ政策の推進が目指されることが確認された。

2009年に公表された有識者懇談会の報告書では民族共生象徴空間について、「これらの施設及び空間は、本報告書のコンセプト全体を体現する扇の要となるものであり、我が国が、将来へ向けて、先住民族の尊厳を尊重し差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会を築いていくための象徴としての意味を持つものである」と記されている。

つまり、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」という国際的な流れから「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされ作られた施設であって、存在さえ無視され続けてきたアイヌ自身がアイヌ文化を守ろうという発想から生まれたものではない。

悲しいことに日本人どころか北海道民でもアイヌの存在を無視し続けている人は多い。古くは東北地方にまで居住地域が広がっていたアイヌ民族が戦国の世のころに次第に本州から追い出され、最終的には北海道の地さえも奪われた歴史はほとんど知られていないどころか無視され続けている。

本州アイヌ(wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B7%9E%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

「ウポポイはなぜ作られた」とググると「観光目的」いった意見が多いのも当然だ。私は対外的に恥ずかしくて作ったと思っている。

近年のクマ問題

近年、人が住む領域にクマが出てきて問題を起こすことが多くなっている。

クマが増えすぎていることに加え、人があまりに無防備・無関心だからだ。クマが寄ってくる食べ物や食べ物のごみを平気で置く。仕事として農業を行う人は作物を食べられては困るので電気柵などで防御する。家庭菜園を行う人は金をかけて電気柵を設置することもなければ、近隣にクマが出てきても収穫してくることを防ごうともしない。食われても作物自体の被害は小さいからだ。そして増えすぎて居場所を無くしたクマが住宅地へ食料を求めて出てきて問題行動を起こす。

先日、北海道福島町で新聞配達員がクマに襲われて亡くなった。その前から町内にクマの出没が見られたにも関わらず、早朝の日が出る前に配達を行っていたためクマの発見が遅れて襲われた結果だ。まだ暗いうちに配達していたのは本人の希望だと報道されていたが、雇用者は被雇用者の安全を守る義務があるはずだ。本人が希望するから危険なことを容認していたという伝え方をするメディアを見ることはなかった。彼を殺したのはクマだが、クマに襲われる状況を作ったのは新聞配達所だ。

そういった問題行動を起こすクマの駆除に対して苦情の電話が多く、日常の業務に支障をきたしていることはよく耳にする。クマと聞いて熊のプーさんしか思い浮かばない連中に言いたい。クマに襲われると肉が千切れるほどの力で攻撃され内臓や肉を食べられるのだ。町の人々はその恐怖に震えながら日々暮らしている。どこかで問題になった発言にあるように「クマをお前の家に送ってやりたい」。あまりに現実を見ない典型的平和ボケ。そういった連中は戦争になって銃や大砲で攻め入られても「人を殺してはいけない」と自衛隊に非難の電話をするのだろう。

#クマ #熊 #福島町 #北海道新聞 #新聞配達員

小樽って最高!

クルーズ客船「ぱしふぃっくびいなす」とオーセントホテルの20周年企画でデイクルーズとランチを楽しむ企画があって行ってきました。

船体の奇麗なラインが美しく、以前から気になっていた船です。
船はやはり見た目もとても大切。高層ビルが浮かんでいるといった外見の船は好きじゃない。20周年記念のイベントということですが、20年前に就航した船とは思えないほど奇麗な内装でした。

10階だったでしょうか、オブザベーションラウンジの前の甲板から見た小樽の街です。小樽港から見る景色は何度も船の上から見ていますが、この高さからは初めてのように思います。赤岩から天狗、毛無山と続く緑の山々に抱かれた小さな町という雰囲気の景色は、改めていい景色だと感じました。この景色はポイントが高いと思います。

赤岩沖の風景。祝津から塩谷にかけての断崖が遠くに見えました。塩谷の窓岩あたりの高い断崖が見えます。そのすぐ左が青の洞窟ですが遠くて見えませんでした。次第に余市方面へ差し掛かり特徴のあるシリパ岬が目に入ります。
この辺りから船内のイベントが始まり、甲板から景色を見ることができなくなりました。ビンゴはいままで当たったことがないし景色を見ていたかったかも(笑)

ビンゴ大会からランチとコンサートになるのですが、あまり好みの歌手ではなかったので最初だけ聞いて甲板に出てきました。短い航海ですのでできるだけ景色を見ていたかったから。

そのころには船は赤岩沖へ差し掛かり、一度小樽港を過ぎて朝里沖あたりから小樽港へ向かいます。防波堤の灯台の間を通り第3埠頭の岸壁まで水面を滑るように進んでいきます。出来れば古平から積丹岬あたりの景色もじっくりと見たかった。遠い昔に積丹半島の周遊船があったころ以来の景色でしたから。

それでも小樽港が近くなってきて、周囲の山々や街並みが見えてきてという風景の変化もまた魅力的な風景でした。特に赤岩周辺の断崖の続く風景から祝津の灯台を過ぎて緑の山のすそ野に街が見えてきてという変化が好きです。新潟-小樽のフェリーでは何度か見ていますが、いつも下船準備などでゆっくりと港に入る風景を見逃していました。鉄道や自動車とはまた違った近づき方でワクワク感が高まってきますね。

ちょっとお高いランチクルーズでしたが、普段見ることのない景色と、オーセントホテルのシェフが作るランチを堪能できました。本当のクルーズにも出てみたいですが、海上で何日もというのは私には苦しそうな気がします。私にはデイクルーズくらいがちょうどいいかも。

安易な自然再生は破壊に匹敵する場合があることを知るべきだ

草木があれば街の公園でも「自然」と呼ぶ人が多いが、それが植えられたものや人が手を入れて管理しているものなら正確には「自然」ではない。それは「人工の緑」だ。

いまアポイ岳の高山植物群落再生計画とかいうものが進められているが、現在進められているやり方に町の諮問機関が見直しを求めている。

都合のいい環境・景観を作ろうとしているのならそれは自然の「再生」ではなく「破壊」に繋がる。人工的に「再生」を目指すのなら諮問機関が言うように遺伝的特性を乱さない方法で栽培対象種を拡大することが必要だ。そして注意深く準備を行わなくてはならない。

なぜなら、同じ種類の木でも、そこにあったものと、遠くから持ってきたものは同じではないからだ。自然の「再生」を目指すなら、そこにある草木の子孫を、自然と同じように草木に競争させ、自然の中のそれぞれの役割を果たさせるような工夫をすべきである。「あの奇麗な木が枯れたから植えよう」という感覚なら何もしない方がいい。人間の影響ではなく自然に枯れたのならそれが自然だからだ。人間の影響なら、植えることを考えるよりも枯れた原因を取り除くことが重要だ。

自然の中の競争は、強いものが勝つという単純なものではなく、それぞれの役割を担って生きるという側面について考えなくてはいけない。成長が早い種は遅い種に日や風の影を提供する。その陰のおかげで生き残る種もある。影になって枯れる種もある。自然とはそういうものだ。

「再生」を目指すには「自然」の中のそれぞれの役割は何かをもっと考えないと取り返しのつかない「破壊」を行ってしまう。
岡村先生が研究してきた「生態学的混播・混植法」の中にもそのヒントがあると思う。興味があったら検索してみてください。

今シーズン初の祝津沖&ウニ

今シーズン初めて妻と祝津沖へ漕ぎ出した。
水族館の駐車場の下の方がまだ閉まっていたのでお願いして開けてもらい、海に出たいからと一番海に近いところへ車を置かせてもらった。


予報どおりに風も波もなく気持ちのいい青空の下を赤岩の崖の下の浜を目指した。近いところに上陸できそうなところもあったが崖が間近まで迫っていて落石が怖かったので、浜の様子と崖の近さを見比べながら景色を見ながらしばらく進む。帰って地図で計ってみたらおよそ3キロくらいの距離だった。途中の岩の上や浜に近い海面にたくさんの海鵜が居たが、視界に入ると逃げるように東へ飛んでいく。「ごめんよ!」

途中ですれ違う船は青の洞窟へ行き来するモーターボートと祝津漁港の漁船。漁船は少し沖側を走る。岸に近いところはウニ採りの漁師さんがいるので影響が無い様に沖を通るのだと思う。しかし青の洞窟へのモーターボートの通るところはばらばら。帆を下ろして泊っているヨットの近くもお構いなし。
漁船や個人のモーターボートは間近ではなくてもすれ違うときに減速してくれるが、洞窟の遊覧の業者は知らぬ顔。新聞で読んだ悪い評判そのままのようだ。

背後がなだらかな草むらの斜面で、打ち上げる波の低いところを見つけて上陸する。波が低い割りに高く打ち上げるところは水深が急に変化しているので、発着のときに苦労するからだ。山の感じからすると中赤岩の真下より少し手前(東側)にあたるようだ。

着いてお湯を沸かしてコーヒーを飲み、妻と景色を見ながら1時間ほどぼんやりとしていた。トド岩の方からフェリーが見えてきた。時間からすると新潟行きだろうか。そこから目の前を通り西に消えていくのに40分ほど。その手前をまた海鵜が東へ飛んでいく。どうも東側にある岩へ向かっているようだ。

波の音を聞きながらこういう景色を眺めていると時間を忘れる。2杯目のコーヒーを飲みきったところで、腹も減ってきたし次の目的地の青塚食堂へ。

美味しかったー!
でもここで気がついた。朝市で塩水ウニを買ってご飯を持って行けば絶景の中で食べれる!次は絶対にそうしよう!ホタテの稚貝か雑魚でも買ってきて味噌汁も作ろう!絶景の中ではインスタントラーメンでも美味しい(^^)

帰って格納庫(笑)に収納したカヤック。この2艇は昨年買ったトライブ13.5(赤)と9.5(黄)。今回は2人なので13.5。一人乗りの9.5は21kgで頭の上に持ち上げると歩きやすいが、13.5は30kgとかなりきつい重さ。若い頃なら頭の上に持ち上げることも出来ただろうが今は無理。車のルーフへの積み下ろしはなんとか一人でこなせるが、大きく持ち難いので足場が悪いところで持って歩くのは無理。筋肉を増やさないと楽しむのも楽じゃないよ(笑)

父との旅の思い出

今年は少し特別な年なので思い出を書いてみました。少し長いですがお付き合いください。

父が旅好きだったことと車を持たなかったことから、子供のころからバスや列車に乗って旅することが多かった。
私が小学校前のころは、小樽から札幌へバスで行くのも乗り継いで行く小さな旅行だった。市内線で朝里まで行き、札幌行に乗り換えて札幌へ向かった光景が記憶の隅にある。もちろん国鉄は蒸気機関車に木製の客車だった時代だ。

小学校の高学年になり父は私を連れて道東の旅を計画した。当時は「カニ族」というキスリングを背負った旅行者が日本中にあふれていた頃で、駅前の屋根のあるところには若者が寝袋に入って転がっていた。

さすがに小学生を連れて野宿は気が引けたのか、当時国設だったキャンプ場を使って国鉄とバスで結んでいくルートを父と計画した。その時に時刻表の見方を教えてもらった。
一般に「キャンプ」自体が浸透していない頃で、若いころ山屋だった父らしい選択だったかもしれない。

なるべく出費を抑えるために食事は基本自炊。材料もほとんど持っていく。今のように便利な道具がなかった時代でもあり、いろいろと工夫を重ねながら調理器具や食材を揃えていく。父は黄土色のキスリング。私はスキー用の左右にスキー靴が入る水色のリュックだった。どちらも結構な大きさだったが一杯になっていた。その上に軍の払い下げの毛布を寝袋代わりに縛り付けて持っていったはずだ。どれくらいの重さだったろうか。日ごろから山へ連れ出されていた私なので重くて歩けなかったような記憶は無い。当時小学生としてはかなり大きかったこともあるかもしれない。

小樽から夜行で網走に入り、見物したのちに斜里まで移動。そこからバスでウトロへ向かい、崖の上にあるキャンプ場に入り一泊。夕日がきれいなスポットだが疲れて明るいうちに寝てしまった。

次の日はウトロから早朝の遊覧船で知床半島の崖などの絶景を見ながら羅臼へ向かい、次に尾岱沼へ向かうのだが、羅臼でキャンプしたような記憶がない。船が何時間かかったか覚えていないが、次の尾岱沼のキャンプ場へ入ったのは昼頃だった記憶があるので羅臼で一泊したのだろう。ヒカリゴケを見るか見ないか相談した記憶もある。軽く船酔いした記憶があるので、町から少し離れたキャンプ場に泊まったのかもしれない。

羅臼を離れて野付半島を見たのちに尾岱沼で一泊した。何もない草むらの中にバス停があり、そこからかなり歩いてキャンプ場に入った気がする。かんかん照りの中に物置のような管理棟が建っている風景を覚えている。

次に屈斜路湖畔のキャンプ場へ移動して泊まり最終目的地は層雲峡のキャンプ場だった。屈斜路湖畔は2泊したかもしれない。けっこうな距離を歩いて温泉に入りに行き、遊覧船にも乗った記憶がある。湖畔を掘ってお湯で顔を洗った記憶もある。暖かく穏やかな場所だったので休憩だったかもしれない。

今も鮮明に覚えているいくつもの風景。
行きの夜行列車で朝起きて見た風景は蒸気機関車の後部の石炭庫だった。
網走の真夏でも寒い海水浴場と小さなオホーツク水族館。
斜里の駅前だったかで駅弁と毛ガニの値段を比べ、カニを選んで駅の階段で食べたこと。
荷物を担いだまま歩いて回った知床五胡。
森繁久彌と加藤登紀子の知床旅情を交互に聞きながら揺られた知床一周の遊覧船からの風景。
白骨のような枯れ木で埋まった野付半島の風景。
尾岱沼のキャンプ場の前で味噌汁の具を袋に小分けして売っていたおばあさん。
夕飯のおかずはその味噌汁に海で採ったアサリを大量に入れたものだった。
朝起きたら牛で埋まっていた尾岱沼のキャンプ場の光景。
温泉に入りに行く途中でブヨの大群に襲われた屈斜路湖畔のキャンプ場。
他にもまだたくさんの風景を思い出す。

今も鮮明に覚えているが、最終目的地だった層雲峡のキャンプ場の入口に「熊が出没したため閉鎖」とあったのだ。
この瞬間に旅は終わった。時刻表とにらめっこして小樽までギリギリ帰れることを確認した時に「家へ帰る」という暗い気分に変わったのだった。

そして最後の記憶は層雲峡からの帰りのバスでは空席がなく、誰かが新聞紙をくれて床に敷いて座ったこと。私も父も暗い顔をしていたことだろう。「仕方がないよね」と何度も言葉を交わしたことを覚えている。旭川から鈍行がなく急行に乗ったような気がする。

父が亡くなって37年ほど。私の年齢は今年で父を10超えることになる。父は永遠に47歳のままなのだ。
妻と結婚してから子供たちを連れて似たような行程を何回かに分けて車で廻った。犬や猫を連れてなので当時とは違う。ほとんど同じ光景が広がっているところもあり、まったく面影もないところもある。ウトロの夕日は30年以上後の旅で妻や子ども達と見ることが出来た。


私の家族と訪れた知床五湖は当時と変わらずに見えた

 

 

 

この時期になると考えること

保健所犬猫応援団のページにうちのプーさんのことが掲載されました。
そこで、この時期になると思うことを書き連ねてみました。少し長いですが読んでいただけるとうれしいです。

うちの愛犬、プーさんはクリスマス頃に街中を彷徨っているところを保護され、犬管理所に収容されました。小樽の犬管理所は暖房もなく雨風を凌ぐだけの施設です。保護のための活動をされている団体の方が寒さに耐えられないと判断して引き取り、その後私の家に来ることになりました。

小樽には引き取られた動物の世話をして引き取り手を探したりしている保護団体があり、殺処分をゼロにしようと活動されています。そのことは何度か新聞でも取り上げられました。読んで知っている方も多いと思います。同じように活動をされている方々が全国にいます。今回プーさんのことを掲載してくださった保健所犬猫応援団もその一つです。

環境省の統計を見ると昭和49年と比べて犬猫の殺処分数は10分の1程度にまで減っています。確かに右肩下がりのグラフになっており、減っていることがわかります。それでも年間に13万匹ほどが殺処分されています。

近年、ペットに関する法令が少しだけ整備され、ペットショップの営業時間に制限が加えられたり、販売業者の義務が明記されたりしました。それでもまだ犬や猫の扱いは「物」であることに変わりはありません。そして、犬猫が「物」のように並べられているペットショップが多いことも変わっていません。

アメリカの一部の州ではペットショップを置けないところがあり、飼いたい人は相談所を訪れてブリーダーを紹介してもらい、ブリーダーと話をしたうえで分けてもらうというシステムがあるそうです。お互いの人柄や状況を確認して売買するシステムです。
日本も同じようにしなくてはならないというわけではありませんが、そういうシステムも取り入れることができるといいなと思います。
今の日本では知り合いの紹介で行くことくらいしかできませんので、情報を集約して紹介できるシステムを作ることはできないものでしょうか。

なぜこんな話になったか。保健所に引き取られる犬猫の中には、飼い主が亡くなったり、事情があって飼えなくなったものも多いですが、おもちゃを買う感覚で買われ、手に負えなくなって手放すものも多いと考えるからです。うちのプーさんのようなケースです。

ペットを飼うということは、お金や時間や生活にいくつもの負担がかかります。そういったことを理解したうえで飼わなくてはいけない。みんながそれを理解できる社会になったら殺処分はゼロに近づけるのではないかと思います。

心に沁みた

昨夜、宴会帰りの電車の中で読んでいて心に沁みた作品。
魯山人にとっての「料理」を私たちの「町づくり」に置き換えるとそのまま通用するような気がします。

「料理はいつもわれわれ日常生活とともにある。そして、そのコツも、いつもわれわれのいちばん手近にある。だが、道は遠いかも知れない。しかし、その遠い道は、いつもいちばん手近の第一歩からはじまっているのだ。」

青空文庫 図書カード:No.50009
作品名: 料理の第一歩
作品名読み: りょうりのだいいっぽ
著者名: 北大路 魯山人
http://www.aozora.gr.jp/cards/001403/card50009.html

スパムの法則

私はAUを使っているので迷惑メールがほとんど届かない。
知り合いの迷惑メールを見せてもらって、どうして字間にピリオドやカンマが入っているのだろうかと調べてみた。

始めは海外のスパム業者が変なエディタで書いているために変なコードが紛れ込んでいるのだろうと思っていたが、意外や意外、スパムフィルタに単語が引っ掛からないように字間に不要な記号を加えているんだそうです。

スパムフィルタをすり抜けても、こんな文章を信用する奴はいるわけない。
少し前は三下の使いっ走りがパソコンの前でスパムの文章を書いてたらしいですが、未だにレベルは変わってないんですね。
どこまでもおバカな連中だこと(笑)